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No.91 -
中日新聞 半田青山専売店 山北新聞店

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中日新聞 半田青山専売店
山北新聞店山北 正義さん大学卒業後、紙の専門商社に就職。東京本社で営業として4年間経験を積む。その後、名古屋勤務となり販売店を営む両親と同居。30歳の時に商社を退社し、販売店に入店。アイデアあふれるさまざまな読者サービスの提供に注力する。
父親が新天地ではじめた販売店を
地域に欠かせない存在に育てた2代目店主。
もともと名古屋市南区の笠寺で商売を営んでいた山北さん一家でしたが、名古屋高速の建設に伴う立ち退きに直面。同じ頃、半田市で印刷会社を営んでいた親戚から「販売店の経営者を探している」という情報が届きます。新しい土地での新規事業挑戦を決心した父親の義見さんは、昭和45年(1970年)に単身で半田市に移り現在の場所で販売店を創業。当時、母親と山北さんたちは名古屋に残ったため、父親に会えるのは週末だけだったと言います。「販売店へ遊びに行くたび、舗装されていない道に苦労しながら新聞を配達する父の姿を目にしたものです」と、その頃を懐かしみます。
その後、山北さんは大学進学のために上京。卒業後は東京に本社を置く紙の専門商社に就職します。そこで約4年間、営業職として活躍した後、地元名古屋への転勤と同時に両親と同居をスタート。実家からの通勤が始まりしばらくして、胃潰瘍を患っていた父親の義見さんに、愛知県がんセンターでの受診がすすめられます。後に、良性ポリープと診断されますが、山北さんが目にしたのは翌日からの配達を心配する義見さんの姿でした。「父はそれまで一度も販売店を継ぐ話をしませんでしたが、この時でさえ継いで欲しいとは言いませんでした。ただ私の中には、大学も就職もすべて自由にさせてくれた両親への感謝の気持ちが大きく……」。さらに、食事会などで交流を深めたスタッフたちの顔が浮かび、すぐに会社を退社し販売店に入店します。
販売店の実務者としての山北さんは、寝る間も惜しんで職場環境の改善や地域貢献などに取り組みます。「口数の少ない父でしたが、その時ばかりは『頑張りすぎだ』と言われました」。現在は、コロナ禍で一部休止となったサービスもありますが、入園&入学式のフォトサービス、クリスマスサンタ訪問、新聞記事のラミネート加工、ミニコミ紙の発行など、次々と読者向けのサービスを展開。名古屋出身の山北さんが営む販売店は、いまでは地域に欠かせない存在になっています。
現在は、息子の恵介さんが実務者として活躍中です。「これからは若い感覚を生かし、SNSやネットワークを駆使して新聞の価値をさらに高めて欲しい」と、3代目に期待を寄せます。
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販売店には息子の恵介さんと、頼もしいスタッフたちの笑顔があふれます。
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併設するクリーニング店では、読者向けのクリーニング宅配サービスを実施。
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庭の手入れやスマホのセットアップなど、日々のお困りごとをサポートする「くらしサポート委員会」も好評です。
販売店エリアのおすすめスポット
■榊原弱者救済所跡公園・鴉根史跡(からすねしせき)公園
跡地にできた杉治商会の畜産研究所は、児童文学作家の新美南吉の勤め先でもありました。南吉が手掛けた最初の童話はここ鴉根で生まれたといわれ、さらに晩年に描かれた「狐」は、亀三郎氏が出会った白い狐がモデルといわれています。
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榊原弱者救済所の跡地の一部を公園として整備。今年春には、敷地を囲うように桜の木が植栽される予定です。
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公園入り口には大正9年(1920年)に完成した記念碑が。当時、救済所を支援した名士や企業が記されています。
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今年3月に設置された狐の像は、高さ約60cmの常滑焼です。4月24日(土)に、除幕式を予定しています。
■半田市 馬場(ばんば)の抱き地蔵
明治38年(1905年)ごろに神戸川で偶然発見された時には、頭を失い胴体のみの姿だったそうですが、信心家に夢のお告げがあり、その後無事に頭部が継ぎ据えられたといわれています。それから現在まで、お参りが絶えないお地蔵さま。月に1度(次回は4月25日、5月23日ほか)開催される御逮夜には、御詠歌が唱えられます。一般の参加も大歓迎です。
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昭和31年(1956年)に完成したお堂は、地域の手で大切に守られています。
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「抱き地蔵さん」の後ろには、願人の心を写す鏡を持つといわれるお地蔵さまが鎮座します。
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南無阿弥陀仏を3回唱え、住所、氏名、年齢、願い事を黙祷し、お地蔵さまを両手でそっと抱き上げてみてください。