中日新聞ほっとWeb HOME > 3冊の本棚 > 文字はミステリアス

3冊の本棚

文章のプロが毎回テーマに沿って、3冊の本をセレクト。
作家という書き手の視線で選ばれた本の魅力をご紹介いたします。

栗原 裕一郎さん
(くりはら・ゆういちろう)

評論家。『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』(イースト新書)という共著が出ました。
栗原 裕一郎

文字はミステリアス

 新刊が出たので知人に献本するのに一筆添えながら、いつものように思うわけである。「字が下手だ」と。相手の名前などで何度か練習するが付け焼き刃で好転するはずもない。習いに行くかと出来心を起こしては気の迷いで終わる。この年齢になるとなかなか。

 ところが同世代のマンガ編集者・新保信長は発起してペン習字教室に通ったというのだ。自分の字の汚さに呆(あき)れ、練習帳をいくつも買い込んでみたが埓(らち)が明かず、教室通いを決心する。<1>『字が汚い!』(文芸春秋・1,404円)は、その悪戦苦闘をリポートした体験記だ。「練習すれば上手(うま)くなるのか」「上手い字の要因は何か」といった根源的な疑問への追及がある一方で、上手そうに見せかけるためのズルの模索もあったりする。作家や政治家、野球選手といった有名人の字の比較や、流行の歴史をひもといたパートなども備えていて、軽い読み物ながらペン字全般にわたる研究本の趣だ。

 新保はやがて、美文字よりも、愛嬌(あいきょう)のある読みやすい字を目指そうという心境に至る。つまり魅力のあるくせ字である。<2>井原奈津子『美しい日本のくせ字』(パイインターナショナル・1,944円)は、有名人から一般人まで、井原が「これは!」と蒐集(しゅうしゅう)したくせ字のエンサイクロペディア。幼少時からくせ字に魅入られてきたというから変わり者だ。その甲斐(かい)あって、非常に珍しいサンプルの採集が実現されている。

 面白いのは松田聖子の字についてで、見るたびに形が違うという。初期は当時流行(はや)っていた丸文字(おまけに下手)だったのが、流行が別の字体に移るとそれ風になり、また丸文字に戻って、ついには流麗な美文字になった。そのミステリーについて推理していたはずの話がいきなり「整形だ整形だと言われている聖子さんの二重の目」に飛んだりしてスリリングである。

 文字を主題にした小説というと中島敦「文字禍(もじか)」が、概念発見より早く、文字を文字として認識できなくなるゲシュタルト崩壊を扱ったことでも有名だが、<3>飛浩隆の短編集『自生の夢』(河出書房新社・1,728円)の表題作は、SFの想像力で「文字禍」を飛躍的にアップデートしたような作品である。「忌字禍(イマジカ)」なる言語を禍々(まがまが)しく操る怪物が登場するのだが、これ正体は、グーグルがAI(人工知能)で進化した果てにはこんなものが現れてくるかもしれないと予感させる知的言語構造体なのだ。忌字禍は著作物に取り憑(つ)き、文字を溢(あふ)れさせ、内側に崩壊させてしまう。あたかも星が自重でブラックホールになるように。物理的ゲシュタルト崩壊とでも呼べそうなイメージと描写が悪夢的である。
  • 『字が汚い!』
    (文芸春秋・1,404円)

  • 『美しい日本のくせ字』
    井原奈津子
    (パイインターナショナル・1,944円)

  • 『飛浩隆の短編集「自生の夢」』
    (河出書房新社・1,728円)