今回は坂井さん
坂井修一(さかい・しゅういち)
坂井さん
歌人・東大教授。夏も終わりが近づいてきました。9月頭には、学会で富山に行きます。初の北陸新幹線。
変身にヒトの真実

 水仙、ヒヤシンス、アネモネ。ギリシャ神話には人間が花になる物語が多い。でも、花になるのは私なら遠慮したい。想像しただけで、濃厚すぎて、ほっぺたが熱くなってくる。シベリアの奥深くにそびえる針葉樹にならなってもいい。誰にも知られず生まれ、巨木となって獣たちを見下ろし、やがてどうと倒れて息絶える。それだけのシンプルな生を生きてみる。ちょっとさびしいが、悪くない。
 <1>オウィディウス『変身物語』(上)(中村善也訳、岩波文庫・907円)より「ピレモンとバウキス」。敬虔(けいけん)な夫婦を描くこの物語は、箱舟を作ったノアの話と似ている。しかし、最後のところが全然違って、こちらはこちらですばらしい。神官として寿命をまっとうした二人は、望み通り、時を同じくして大木に姿を変える。こんな理想的な終局が待っているなら、苦労続きの人生も悪くない。

 <2>手塚治虫『火の鳥 3-ヤマト編・宇宙編』(朝日新聞出版・1,188円)より「宇宙編」。宇宙飛行士の牧村五郎が自殺した。同時に起こった事故で乗組員全員が救命ボートで脱出する中、死んだはずの彼の救命ボートが宇宙を漂流する。牧村を愛するナナは、彼につきそうために辺境の星で異形の生命体に変身する。


さらに、彼女を溺愛する猿田は…。
 謎解きあり、愛憎劇あり、超越者あり。人間の魔性と、かすかな摂理の香りと。これぞ手塚印の人間ドラマだ。宇宙を描いた『火の鳥』といえば「望郷編」がベストと思っていたが、今の私はこの「宇宙編」のほうが良いと感じる。ヒトのもつ闇への共感かもしれないが。

 <3>『荘子 第一冊〔内篇〕』(金谷治訳注、岩波文庫・799円)より「胡蝶(こちょう)の夢」。古代中国の哲人荘子は蝶になった夢を見て楽しむ。夢から醒(さ)めて思う。あの蝶がヒトになった夢を見ている、それこそ今の自分ではないのか。
 斉物(せいぶつ)論の核となる逸話。現代科学は、蝶の小さな脳が<人間になる夢>を見ることを否定するだろうが、それでもこの話は、私たちの心のふるさとを指し示してはいる。ヒトであることや蝶であることの呪縛から離れてみれば、世界はうんと静かで心地良い空気に満たされたものなのだ。
 人間以外の生命への変身や転身。この三冊はどれも我々の生きる日常のじたばたからは遠いかもしれない。しかし、これらは大きな虚の世界を余情深く描いているがゆえに、我々の根っこにある真実を語りやまないだろう。

『変身物語』
『変身物語』(上)
オウィディウス
中村善也訳
(岩波文庫・907円)
薔薇子爵(ばらししゃく)
『火の鳥
3-ヤマト編・宇宙編』
手塚治虫
(朝日新聞出版・1,188円)
『モデラート・カンタービレ』
『荘子 第一冊〔内篇〕』
金谷治訳注
(岩波文庫・799円)