今回は坂井さん
坂井修一(さかい・しゅういち)
坂井さん
歌人・東京大教授。29日、日比谷コンベンションホールで「明星研究会」。森鴎外の翻訳詩の話をします。
深まる人生にワイン

 ワインの話をするのはこわい。どの社会にもバッカスの下僕、葡萄(ぶどう)の国の使者がいる。微妙な芳香の差を嗅ぎ分け、タンニンの経年変化を味わい尽くすのに、財産の半分を使って悔いない面々だ。グラス傾けて感想など言おうものなら、圧倒的な語彙(ごい)で解説してくださる。ビンテージ、テロワール、パーカーポイント。降参、降参。
 そんな経験を繰り返しても、ワインはおいしい。ワインは楽しい。


 <1>山本昭彦『これが最後のワイン入門』(講談社・1296円)。いい入門書は自然体でバランス良く、統一感があって上品だ。これもそんな一冊。ワインの飲み方、作り方、産地について、シンプルで透明度高く、堅実に説明されている。入門書とはいえ、特徴の分類表(「試飲ノート」)や格付けシャトーの表などは、コピーして手帳にはさんでおく価値がある。巻末の用語集も簡潔でわかりやすい。


 <2>ジョージ・オーウェル『一九八四年』(高橋和久訳、早川書房・929円)。この高名な長編ディストピア小説の中で、ワインが登場するのはたった一カ所。ビールでもジンでもないぜいたくな酒として、支配者層の男から主人公とその恋人にふるまわれるところだ。


 この酒は「暗紅色の液体」であり、「甘酸っぱい香りがする」が、ジンを飲み続けた主人公には「まったくの期待はずれ」の代物だった。
 そんな味気ない言葉で語られるのだが、ワインは物語の中で象徴的な意味をもつ大きなアイテムだ。主人公を破滅させるきっかけになるのが、まさにこの場面、この酒なのだから。
 良くも悪くも、ワインは飲み手の立ち位置を象徴する酒。今の自分に一番似合うワインは何だろう。


 <3>開高健『ロマネ・コンティ・一九三五年(いちきゅうさんごねん)』(文春文庫・594円)。作中のロマネ・コンティは37歳である。貨物船で揺られ、気温の変化にさらされ、瀕死(ひんし)の状態。しかし、この古酒は、主人公の小説家を強烈に刺激する。パリで出会った女性との一部始終を想起させたのである。匂い、味、言葉、表情。脳の奥深くに刻まれたすべての記憶を呼び覚ましながら、ゆきずりの恋に封じ込められた真実を、ロマネが鮮やかに語り尽くしたのだ。
ワインは銘柄で味わうものではなく、五感で味わうもの。ただし、感覚の冴(さ)えた若者が最良の飲み手かというと、そうではない。人生の虚実を知ってはじめて楽しめる酒もある。私などは、まだほんの入り口だ。

『これが最後のワイン入門』
『これが最後のワイン入門』
山本昭彦
(講談社・1,296円)
池波正太郎の銀座日記〔全〕
『一九八四年』
ジョージ・オーウェル
(高橋和久訳、早川書房・929円)
『買えない味』
『ロマネ・コンティ・一九三五年』
開高健
(文春文庫・594円)