今回は藤沢さん
藤沢周(ふじさわ・しゅう) 
藤沢さん
作家。佐渡へ蝋燭(ろうそく)能を見に。72歳で配流された世阿弥翁の心が仄(ほの)浮かぶ一夜。至福なり。
古典が教える人間の業

 あり、をり、はべり、いまそかり。文法で引っかかり、古典音痴になったのは40年前。なんともったいないことであるよ。古典の方が響く歳(とし)になったのである。というよりも、むしろ現在なるものを考える時に、とてつもないヒントを与えてくれるのが古典といえる。現代ならではの猟奇犯罪、ネットや電話での詐欺、あるいは、利益優先の企業と政府の不実な対応…。こんなものはすでに古典に書かれているのだ。人間の欲動のありかたの核やバリエーションとしてである。

 男の「感性は、本来的にこうした無秩序の<闇>を孕(はら)んでいた。それは『もの』が無限の変容を繰りかえし、感性に『くひつ』いてくるという場所である。彼が立っていたのは、こうした<闇>にさらされた『不信』の場所にほかならなかった」。


 この「彼」とは、理由なき殺人者のことか? 否。中世の歌人・随筆作者である吉田兼好法師のことである。<1>『川村湊自撰集(1) 古典・近世文学編』(作品社・3,024円)は、兼好はじめ上田秋成、鶴屋南北、曲亭馬琴などなど、古典をディープに読み解きながら、作者たちの魂の襞(ひだ)にまで入り込んで、現代にまで通じる人間の業を焙(あぶ)り出していくのだ。

もはや兼好法師が目の前にいて、「異様(ことよう)」なる体臭を放ち、虚無の底で呻(うめ)き、もがく姿が見えるようだ。まさに古典は現代にこそ生きている。


 古典を愛した文芸評論家といえば、小林秀雄。「美しい花がある、花の美しさというようなものはない」と世阿弥を論じた名フレーズは、観念的な「花の美しさ」ではなく、直接的に経験される「美しい花」の真景こそが、世阿弥の能なのだということである。さらに、<2>『小林秀雄全作品(13) 歴史と文学』(新潮社・1,728円)所収の講演録「文学と自分」には、「作品とは芸術家が心を虚(むな)しくして自然を受け納れるその受け納れ方の極印であると言ふことができる」とある。これは現代の表現者こそが考えねばならぬもの。ことあるごとに自分も噛(か)みしめる文章だ。


 この知的巨匠の対話集を読み、「潔い、男らしい声」を聴き取ったのが、<3>秋山駿『沈黙を聴く』(長谷川郁夫編、幻戯書房・3,996円)。あるいは、「生きた声」とも。観念からの声ではなく、自らの心を明らかにし、相手の心を明らかにする声、ということである。自己から発して自己に還(かえ)る自由。故秋山が遺(のこ)した単行本未収録のエッセー群は、小林秀雄同様、生の円熟のあり方を魂の奥深くまで教えてくれる。

『川村湊自撰集(1) 古典・近世文学編』
『川村湊自撰集(1) 
古典・近世文学編』
川村湊
(作品社・3,024円)
『小林秀雄全作品(13) 歴史と文学』
『小林秀雄全作品(13) 
歴史と文学』
小林秀雄
(新潮社・1,728円)
『沈黙を聴く』
『沈黙を聴く』
秋山駿
(長谷川郁夫編、幻戯書房・3,996円)